ライブ・コンサート

  • 2003年
  • 「祭りの後で」

毎年7月に行われるシャンソンのコンサート『パリ祭』は
8月にはすでに翌年の準備が始められる。
以前、TVで富山県八尾町の「おわら風の盆」という祭の特集を
見たことがある。その中で、町の人が「私たちは皆
この日に向けて1年間を過ごす。この日の為に
1年間があるのです」というようなことを話していた。
リオのサンバカーニバルもそうだろう。
無数の参加者たちが、カーニバルに向けて365日かけて
熱く熱く燃えてゆく。
カーニバルの終了後を「灰色の水曜日」と呼ぶくらいだから
燃え尽きる様が手にとるようにわかる。

日本で『パリ祭』というコンサートが行われるように
なったのは、1963年のこと。
もちろん、始められたのは石井好子先生だ。
1933年、ルネ・クレールの映画「7月14日(Le Quatorze
Juillet)」が日本で公開された。輸入元の映画会社が邦題で
「巴里祭」とお洒落に名付けたことでこの言葉が浸透。
それ以降、7月14日のフランス革命記念日を「パリ祭」と
呼ぶようになったようだ。
歌い手たちが一同に集まってシャンソンを唄う「パリ祭」は
もう41年も続いている。
41年前って…私なんか影も形もない頃。
母がまだ、牛乳瓶の底みたいなぶ厚い眼鏡をかけて勉学に
勤しんでいた頃ではないかしら。

41年という月日は半端ではない。
私が石井先生の『パリ祭』に参加させていただくように
なったのは、一昨年の岡山公演から。
NHKホールを始めとする、全公演に参加させていただいたのは
去年からなので僅か2年ちょっとのこと。
その、たった2年でさえ、実にたくさんの経験をさせて
いただいているのだから41年間ご自身が先頭にお立ちになって
力強くしっかりと歩んでいらした
石井先生にとっては、私なんかには想像もできないくらいの
様々なことがあったに違いない。
石井好子先生の歌に、いつも胸が熱くなるのは
きっと長い長い年月の喜びや苦しみがステージに
現れているからだと思う。
舞台袖で何度、涙をこぼしそうになったことか…。

祭りの後で

地方公演では、先生の唄われる「私の神様」のすぐ後が
フィナーレだったので涙を堪えようとして身体がヒクヒクなって
しまい、その度に大きく深呼吸をしなければならなかった。
舞台で泣く訳にはいかないものね…。

年が明けるなり、その年の出演者が勢ぞろいして
顔合わせ兼、ミーティングが行われる。
そして、5月に入ると毎週のように稽古稽古…。
コーラス、ダンス…大御所と呼ばれる諸先輩方から
私のようなヒヨッコまでが皆一緒に、汗だくになって稽古をする。
取材やコンサート等の仕事が入らない限り、石井先生も必ず
いらしてくださる。時には厳しい眼差しで稽古をご覧になって、
各々にアドバイスをしてくださる。
出演者もスタッフの方々も、全員が毎回真剣勝負の数カ月だ。
まさに命がけ。

そうして幕を開け、やがて千秋楽を迎える『パリ祭』。

祭りの後で

毎日のように顔を合わせていた皆と会えなくなり
言いようのない淋しさが訪れる。
さぞ、お疲れになられたであろう石井先生は、すぐさま来年の
打ち合わせに入られ私たちは、その年『パリ祭』で学んだことを
ひとつひとつ確かめながら次のステップへと進んでゆく。

淋しさが薄れてきた頃、「祭の終わり」は「祭の始まり」
にしか過ぎない、ということに気付く。
私は『パリ祭』を通して、豊かな時を過ごさせて
もらっている。

祭りの後で

歌手としても女性としても…人間としても、お手本となる
石井好子先生の背中を見ながら学べることの喜びは、
何事にも変え難い財産だと思う。

                      2003. 9月   あみ